井戸端ではぐくんだ恋物語

 幼い頃からの恋の火が静かに燃えつづけていたケースである。浅黒い顔に利発そうな瞳をやどしたラハマのところへ父方の伯父の息子、すなわち結婚相手としては最も良いとされているいとこから結婚の申込みがあった。彼女は、父に懇願した。「どうか断ってください。少なくとも、もう少し待ってもらってください」と。「私は、去年、洪水の時に死んでしまった妹のことが忘れられません。まだショックから立ち直れないのです」。

 ラハマの妹が不慮の死をとげたのは事実であった。沙漠の水害は珍しいことではない。ふだんは干からびている涸れ河ワーディに、雨が降ると、お膳の上に味噌汁の椀をひっくり返したように八方にわあっと流れる。サイルとよんでいるこの洪水で遊牧民のテントが流されたり、死傷者が出たりもする。

 ラハマには妹の水死という格好の口実が与えられた。

 ラハマは、母方のいとこの一人と早くから相思の仲だったのである。父方のいとこが、とうとうしびれをきらして他のいとこと結婚するまで、ラハマは、同じ口実を使ってじっと待った。母方のいとこで、彼女の意中の人であったシャーキルは、ジッダの町に出稼ぎに出ていることが多く、金曜日の休日にしか戻って来なかったが、この静かな恋物語はめでたく実を結んだ。二人は各々別々に私の家にやって来て(結婚するまではうちそろって来ることは許されない)、一部始終を語り、喜びをかくしきれない様子であった。

(『アラビア・ノート』(ちくま学芸文庫版)、107-108頁より)

この記述に関連した最新の現地調査による研究成果は『サウジアラビア、オアシスに生きる女性たちの50年』(河出書房新社、2019年)158-159頁「託された遺品」にあり

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